シーメールの存在意義はどこにあるか

シーメールの心の内は何だろう。これこそクィア理論に加えられるべき要素となるわけだが、性的な興奮をおぼえるという意味でよくつかわれている言葉に「フェティシズム」というものがある。すこし、クィア理論と外れるような要素をもったこの言葉の本来の意味を知ればけっしてそうとはいいきれないことがわかる。

誰にでも、対象を性的に見てしまうことはよくあるのだ。しかしフェティシズムの本来の意味は、軽いものではなかった。これはその対象を異常的に考えることでしかその存在を認められないというまでのモノ。いわゆる「一般的な性的思考」とは言い難いものになるということになる。シーメールにもこの要素が含まれているという事は考えられるのだ。

どこの世界にも異端派はいる。同姓愛者以上の異端的趣味がこのシーメールの存在にあてはまる。性は心の内に秘めているものとしてなかなか表には出されない故に、その奥がとてつもなく広く深く続いていることは、地球上に存在する一つの人間として理解することは明らかに必要なのでである。人間が人間を見下すことはできない。人が同等であることでお互いを残酷な人間に陥れないことを心がけなければ人間はどこまでも残酷になれてしまうからである。この残酷さを兼ね備えた生物は、ヒト以外にはそんざいしないのだ。

トランスジェンダー

人が性の審判を人に下すことはできない。それでいて、トランスジェンダーを抱えた者たちの過去はとても暗いものだった。それが人と少し違うというだけで、同性を制の対象として見ているだけで、その者たちへの言動・行動には人間のあからさまに醜い部分をさらけださざるをえなかった。おかげで彼らは表で光を見ることも許されない状態であった。

どこに行ってもそこには驚くほどの差別がなされていたのだ。人による差別・法による差別はいつの時代にもあった。差別というのは、人が下した判決にすぎない。しかし、宗教にもこの教えはあったのだろうか。隣人を愛することを教えたイエス・キリストは、隣人を愛することをどういう意味で教えたのだろうか。愛とは何か。これすらも定かではないままに宗教すらも人を見下したのだ。どこにいても、光が射すことはないと思っていた彼らの心に唯一の光が射し込んだ。それがかれらの集まるべき街、ゲイタウンであた。ここでは、彼らの生きる喜びを与えてくれる幸せがたくさんあった。

その数少ない喜びこそ彼らを支えたのだ。性をこえた仲間意識の強さはいま現在でもずっと続くものであり、心理的にも同性愛者であるということを自身で攻め立てる必要もなかった。理解者が理解者を求めることは、生きる自由を認めたこの社会では当たり前のことで、誰にもそれをやめさせる権利はなかったのだ。

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クィア理論的シーメールの価値観